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哀れだと思うこと

自分を攻撃してくる人がいます。

それは直接的な暴力であったり、無視や暴言など精神的なものであったり。

それはイジメであったり、イジリであったり。

色んな形がありますが、心がとても痛むものです。

そんな出来事に対して、どう対処すれば良いのでしょうか。

目次

私が悪いの?

色んな理由を思いつくでしょう。

私が弱いから、のろまだから、勉強ができないから、仕事ができないから、不細工だから、人間関係が不器用だから。

自分に理由があるから、こんな仕打ちを受けてしまうんだ。

それを改善すれば変わるかな。

改善できるならそうすれば良いでしょう。

改善できる問題であって、その環境があって、そうすることで自分をより好きになるならば。

でもほとんどの場合、そうではない。

そもそも、理由なんてない。

引き金や原因は何かしらあるかも知れません。

でも、攻撃をするかは相手が選択すること。

そう。

理由は相手にあるのです。

何故、選ばれてしまったのか。

攻撃するかの選択は各攻撃者がします。

そこに私たちの特性を言い訳として利用しようとするだけです。

要は誰でも良いのです。

同じように攻撃者の目に留まる人であれば、誰だって良い。

私たちが選ばれてしまった理由は、

たまたま攻撃者と同じコミュニティに属していて、たまたま攻撃者の目に留まったからです。

馬鹿らしいでしょう。

何故、攻撃してしまうのか。

ここで、攻撃者に着目してみましょう。

繰り返しますが、攻撃者は攻撃することを選択しています。

攻撃・怒りとは心の防御機能の発露です。

自分の中の激流を、感情を自分の中で処理できないから、発散する相手を探すのです。

攻撃しても良い、反撃されない誰かを、その属しているコミュニティの中から。

でもおかしいですよね。

別に私たちにイライラしたって受け流せば良いのです、他の大多数の人がそうしているように。

私たちだってそうしています。

でもできない。

攻撃者たちは、何故攻撃するのか。

いや、しなければならないのか。

そうです。

攻撃者は、自分の感情を処理できないから、自分の心を守るために私たちを攻撃するのです。

攻撃者にとっての攻撃は、自分を守るために「しなければならないこと」なのです

自分の感情に振り回され、いっぱいいっぱいになって、捌け口を自分より弱い誰かに求める。

これが攻撃者の実態です。

その哀れさ

自分と向き合うことができずに、癇癪を起している。

これはとても哀れなことです。

内省が不得意が故に、感情に弄ばれている。

生きることがとてもハードな状況です。

内省とはとても高度で精神的負荷が高いテクニックです。

自分の嫌な面と向き合って、知りたくなかったことも知ってしまうことになりますから。

幸か不幸か、私たちは攻撃者によってその力を得ました。

自発的ではないことがとても口惜しいですが。

ですが攻撃者たちは内省方向の思考力がとても低いのです。

思考力ハードモードな人は、自分で気付いているか否かは別にして、とても生きづらい状況にあります。

私たちは、攻撃者も含め、全員が深い孤独の中にいます。

誰も彼もが、たった一人です。

会話しても一人、一緒にいても一人。

誰も本当に私たちのことを理解してくれないし、私たちも他者を本当には理解できない。

でも、自分は違います。

自分は自分と一生付き合っていくのです。

思い通りにならない自分と、この孤独な世界に不可分で存在しているのです。

そんな孤独の中、自分との対話すらできない。

自分と仲良くすることすらできない。

その深すぎる孤独は、とても哀れなことです。

では、どうすれば……?

深すぎる孤独の最中にいる攻撃者は哀れな存在だということが分かりました。

だからと言って、慈悲の心で接するべきとは言いません。

悪いのは攻撃してくる人ですから。

ただ、この観点をもって攻撃者と接すると見えてくるものがあります。

攻撃者の弱さが。

もやもや、イライラ、痛みのみに支配されない、一つの見方がここにあります。

まとめ

・受ける攻撃に見合った理由は、私たちにはない。

・攻撃者は哀れな存在である。

ただ、その深すぎる孤独は、本質的に全ての人が持っているものです。

攻撃者と同じ状況にならないように、注意深く生きていかなければなりません。

少なくとも、私たちは。

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